零式艦上戦闘機

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零式艦上戦闘機

空母翔鶴の艦上で発進準備中の零戦

空母翔鶴の艦上で発進準備中の零戦

零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は大日本帝国海軍(以下、海軍と表記する)の主力艦上戦闘機。「零戦(ぜろせん、れいせん。「ゼロ戦」とも)」の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。艦上戦闘機(以下、艦戦と表記する)としては実質的な最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争[1]の終戦まで、主力戦闘機として前線で運用された。大戦初期の空戦において連合国の戦闘機を圧倒したことから、当時の連合国パイロットから、「ゼロファイター」の名で恐れられた。開発元は三菱重工業中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製。一般に、アメリカP-51ドイツBf109イギリススピットファイア等とともに大戦期の優秀機として数えられる。

目次

[編集] 名称

遊就館に展示されている零式艦上戦闘機五二型(A6M5)
遊就館に展示されている零式艦上戦闘機五二型(A6M5)

当時の軍用機は採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。零戦が制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、下2桁が「00」であるため「零式」という名称になった。なお日本陸軍(以下、陸軍)では同じ年に採用した兵器を一〇〇式と命名している(例:一〇〇式司令部偵察機一〇〇式重爆撃機)。海軍は1942年(昭和17年)零戦の水上機型である二式水上戦闘機などを最後に年次名称を廃止したため、大戦後期に主力となった局地戦闘機「紫電改」や「雷電」などには年次名称はない。

「『零戦』を『ぜろせん』と読むのは誤り」と言う者もあるが、戦時中の新聞報道に「兵士たちにはゼロセンと呼ばれており……」という記述があることからも、「ぜろせん」「れいせん」の両方が使われていたと考えられる。渡辺洋二の著書や坂井三郎を始めとする関係者の話からも、「ぜろせん」という言葉は当時から一般的であり、中央から現場(実戦部隊)にいくにつれて「れいせん」より「ぜろせん」、時代が後になるにつれて「れいせん」より「ぜろせん」と呼ばれる傾向が読み取れる。1942年(昭和17年)後半以降は部隊では「ぜろせん」であったらしく、1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際も「荒鷲等からは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されている。反対に一見それらしく思われる「ゼロファイター」の和訳が戦後一般化したという説には根拠が存在しない。

連合軍が零戦に付けたコードネームは「Zeke」(ジーク)。だが米軍側の将兵も「Zero」(ゼロ)と呼ぶ事が多く、「Zeke」のコードネーム自体が「Zero」の綴りに近いから選ばれたという説もある。ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、「Hamp」(当初はHap)というコードネームがつけられた。

[編集] 諸元

制式名称 零式艦上戦闘機二一型 零式艦上戦闘機五二甲型
機体略号 A6M2b A6M5a
全幅 12.0m 11.0m
全長 9.06m 9.121m
全高 3.5m 同左
翼面積 22.44m² 21.30m²
翼面荷重 119.16 kg/m² 128.78 kg/m²
自重 1,680kg 1,894kg
正規全備重量 2,674kg 2,743kg
発動機 栄一二型(離昇940馬力) 栄二一型(離昇1,130馬力)
最高速度 533.4km/h(高度4,200m)注1 559.3km/h(高度6,000m)
上昇力 6,000mまで7分28秒 6,000mまで7分1秒
降下制限速度 629.7km/h 740.8km/h
航続距離 3,350km(増槽あり)/2,222km(正規) 全力30分+2,560km(増槽あり)
武装 翼内20mm機銃2挺(携行弾数各60発)注2
機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各700発)
翼内20mm機銃2挺(携行弾数各125発)
機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各700発)
爆装 30kg又は60kg爆弾2発 同左

注1:主翼外板増厚後の数値。制式化当時は同高度で509.3km/h。
注2:後期生産型は携行弾数各100発。

[編集] 改良型

性能向上や戦訓の取り入れのため、段階的に改良されている。当初、発動機の換装は一号、二号、機体の改修は一型、二型と表されていたが、1942年夏に連続した二桁の数字(最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示す)で示すように変更されたため、既存の一号一型/一号二型は一一型/二一型と改称、二号零戦/二号零戦改と仮称されていた新型零戦は三二型/二二型と命名された。後に武装の変更を示す甲乙丙を付与する規定が追加されている。因みに「二一型」「五二型」は、それぞれ「にいちがた」「ごーにーがた」と読む。

以下に改良に伴う形式、発動機、主翼、各種装備の変遷を示す。時系列ではあるが時期を正確に表現したものではない。例えば四一型の計画時期は五二型と同時期である。また表現の限界から全ての装備変遷について網羅したものではない。この他にも胴体銃(7.7mm機銃と13.2mm機銃)の廃止等が行われている。

改良型
発動機 型式 主翼
栄一二 一一 翼端折り畳みなし
└→ 二一 四一(計画のみ) 翼端折り畳みあり
栄二一 └→ 三二 翼端切り落とし(角型)
└→ 二二 二二甲 翼端折り畳みあり
栄二一
栄三一甲
栄三一乙
└→ 五二 五二甲 五二乙 五二丙 六二 翼端切り落とし(丸型)
栄三一 ├→ 五三 六三
金星六二 └→ 五四 六四
装備 九九式一号機銃 九九式二号機銃 20mm機銃の形式
60発 100発 125発ベルト給弾 20mm機銃の弾数
7.7mm機銃 13mm機銃 副兵装
防弾装備無し 防弾装備有り 防弾装備
小型爆弾のみ 250kg 500kg 爆装

[編集] 派生型

引き込み式主脚の代わりにフロートを付けた水上戦闘機型の「二式水上戦闘機」や複座練習機型の「零式練習戦闘機」、胴体に20mm斜銃1挺を追加した夜間戦闘機型(通称「零夜戦」)がある。また、陸上基地での運用を前提に、二二型の翼端折り畳み機構と着艦フックを廃止した「零戦一二型」と呼ばれる型が存在していたとする説が雑誌「丸」において発表されている。その他にも、翼内の九九式20mm機銃を二式30mm機銃に換装した試験機が数機試作され、ラバウルにおいて実戦テストに投入されている。

[編集] 開発

零戦の開発は1937年(昭和12年)9月に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。三菱では前作である九六式艦上戦闘機に続いて堀越二郎技師を設計主務者として開発に取り組んだ。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高く、ライバルの中島飛行機が途中で辞退したため、三菱単独の開発となった。1939年(昭和14年)4月に岐阜県の陸軍各務原飛行場で試作一号機が初飛行、翌1940年(昭和15年)7月に制式採用された。

中島飛行機が辞退したのは陸軍戦闘機(キ四三・後の一式戦闘機「隼」、キ四四・後の二式単座戦闘機「鍾馗」)の開発の為とする説[要出典]と、十二試艦上戦闘機の設計要求が厳しすぎた為とする説がある。[要出典]

[編集] 要求性能

零戦の仕様は「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている。以下にその内容を示す。

機種
艦上戦闘機
使用別
航空母艦(基地)
用途
1. 敵攻撃機の阻止撃攘
2. 敵観測機の掃討
座席数
1
特性
速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること
航続力
正規満載時全力1時間
機銃
20mm1~2。1の場合は7.7mm 2を追加。弾薬包は20mm 1につき60、7.7mm 1につき300
通信力
電信300浬、電話30浬
実用高度
3,000m乃至5,000m
記事
1. 離着陸性能良好なること。離艦距離 合成風力10m/sにおいて70m以内
2. 増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること
3. 促進可能なること
4. 必要により30kg爆弾2個携行し得ること

ここで目を引くのは航続力が距離ではなく滞空時間で示されている事、目的はあくまでも「敵攻撃機の阻止撃攘」と「敵観測機の掃討」とされ、特性においても「速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適」する事が第一であり、対戦闘機戦闘は「戦闘機との空戦に優越すること」と方法については触れられていない。

また、一般に言われているような「長距離進攻する(陸上)攻撃機の護衛」や「格闘戦における旋回性能が九六式艦上戦闘機に優越」、「速度と旋回性能の両立」等は一切書かれていない。にも拘らず、そのような要求が当初からあったかのように伝えられているのは、当時は大陸で得られた戦訓から海軍の戦闘機に対する要求性能が大きく揺れ動いていた時期であり、その時々に海軍から出されていた要求の追加・変更の内、設計側に強く印象付けられた要点のみが時系列を無視した形で一般に伝えられたためと考えられる。[要出典]

[編集] 航続力

『昭和十一年度 航空機種及性能標準』で求められている艦上戦闘機を除く各機種の航続力は以下のようなものである。

  • 艦上爆撃機:高度2,000m 巡航160ノット以上で800浬以上
  • 艦上攻撃機:高度2,000m 巡航140ノット以上で500浬以上
  • 陸上攻撃機:過荷重1,300浬以上

この様に、性能標準において滞空時間で航続力を示すのはどちらかと言えば異例であり、艦爆や艦攻に要求されている航続距離と巡航速度から算出した滞空時間が4時間であることから、零戦に求められた6時間の滞空能力は、護衛に用いるには過大であることが分かる。また、上記の性能標準における艦上戦闘機の「用途」や艦上爆撃機艦上攻撃機の巡航速度の不一致、更にこの当時における戦闘機無用論の台頭を考えると、「艦攻や艦爆の護衛」に用いることを前提に艦戦を開発していたとは考え難い。

艦隊防空を主任務とする艦戦が運用される航空母艦は陸上基地とは異なり、早期警戒のための対空見張り網を構築できないため、常に艦戦を滞空させて対空監視(戦闘哨戒)を行う必要がある[2]。このような運用を前提とする場合、滞空時間が長ければ長いほど突発的な事態[3]において防空網に穴が空きにくいという利点がある。

[編集] 武装

九九式二〇ミリ機銃も参照

零戦初期型には、20mm機銃2挺(翼内)と7.7mm機銃2挺(機首)が搭載されていた。

7.7mm機銃は当時の歩兵用軽機関銃と同口径の機関銃で、歩兵用を航空機用に改良し搭載したものである。

また、用途の1.に挙げられている「敵攻撃機の阻止撃攘」を可能にするため、当時としては大威力の20mm機銃の搭載が求められていた。これは『昭和十一年度 航空機種及性能標準』に記載されている300km/h以上で突入してくる800kgの魚雷や対艦爆弾を搭載した艦上攻撃機や、1,500kgの魚雷や対艦爆弾を搭載した陸上攻撃機を一撃の下に撃墜するには、炸裂弾を使用可能な20mm機銃が必要であると判断された為である。

零戦に搭載された20mm機銃はエリコンFFをライセンス生産した九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃及び両者の改良型であり、初速は一号銃(FF)が600m/s、二号銃(FFL)が750m/s、 携行弾数は60発ドラム給弾(九九式一号一型・一一型~三二型搭載)/100発大型ドラム弾倉(九九式一号三型または九九式二号三型・二一型~五二型搭載)/125発ベルト給弾(九九式二号四型・五二甲型以降搭載)となっていた。

多くの搭乗員は20mm機銃の大威力を認めているが、その反面60発しかない携行弾数(初期型)の少なさ(二射斉で全弾消費するパイロットもいた)、7.7mmとの弾道の違い、旋回による発射G制限も欠点として指摘されており、これに対応して携行弾数を増加させる改修が施されている。大戦中盤からは一号銃から銃身を長くして破壊力を上げた二号銃が搭載されるようになった。

九九式一号銃の初速では弾丸の信管の不具合もあってB-17の防弾板を至近距離でなければ貫通できないことを海軍が鹵獲した実物で確認しており、高初速の二号銃の採用は、弾道改善のためだけではなく貫通力改善の意味合いも強かった(先行して信管の改良も実施された)。

携行弾数については、特に初期の60発ドラム弾倉は決して多いとは言えないが、零戦のみならず同時期の欧米機も似たようなものであり、改良によって最終的にはベルト給弾化により125発まで増加した。 なお、エリコンFFシリーズは弾倉が機銃の構造の一部であったため、ベルト給弾化は困難といわれており、本家スイスのみならず技術先進国といわれたドイツでも実施されておらず、日本の九九式二号四型は空前の存在であった。

九九式20mm機銃は「照準が難しく、修正しているうちに弾がなくなる」ため、戦闘機との激しい空戦においてはやや使い難いという欠点があった[4]が、「照準さえ良ければ一撃でノックアウト可能」な大威力を活かして開戦直後からB-17すら撃墜し、米軍に大きな脅威を与えたことも事実である。

また、大戦後期にアメリカ軍が12.7mm機関銃6~8門を装備したF6FヘルキャットP-51ムスタングを投入してくると、機首の九七式7.7mm機銃二挺に替えて、三式13.2mm機銃を1~3挺(機首1、翼内2)搭載した。

[編集] 防御

防御装備は要求項目に記載されておらず、設計においてもほとんど考慮されることはなかった。日中戦争において防弾装備の必要性が痛感されていたにも拘らず要求の追加すら行われていないのは、将来戦闘機に20mm級機銃が搭載されることが一般的になると判断された為である。20mm級機銃弾に耐えうる防弾装備は非常に重いため、中途半端な防弾装備を施すよりは軽量化を図り、速度や運動性等を向上させることで被弾確率を低下させた方が合理的と考えられた。

開戦後、米軍機の防御面での堅牢さや鹵獲(ろかく)したB-17爆撃機の充実した防弾装備を目の当たりにしたことから防弾の必要性が再認識され、『昭和十八年度 航空機機種及性能標準』(1942年(昭和17年)度に計画されたもの)から戦闘機の防御・防弾能力についての記載が現れる。

しかし防弾装備の実用化が遅れていたこと、開戦から一年も経たずにガダルカナル島で始まった連合国軍の反撃に対応するため、改修による生産数や飛行性能の低下が許容出来なかったことから先送りされ、結局終戦まで十分な防御装備を得ることができなかった。ただし1943年(昭和18年)末生産開始の五二型後期生産型から翼内タンクに炭酸ガスによる自動消火装置が、翌1944年(昭和19年)生産開始の五二乙型から操縦席に50mm防弾ガラスが付加、更に五二丙型からは座席後方に8mm防弾鋼板を追加し、一部の機体は胴体タンクを自動防漏式にしている。

なお一般に日本機は「防弾装備の実施が遅れていた」と言われているが、これが当てはまるのは大戦初期までに登場する海軍機に多く、陸軍機には早くからある程度の防弾が考慮され、装備されている機体が多い。

[編集] 通信機など

零戦には前作の九六式艦戦同様に無線電話・電信機が標準装備されており、当初は九六式空一号無線電話機[5]を搭載していたが、大戦後半はより高性能の三式空一号無線電話機[6]に変更している。アリューシャンで鹵獲した二一型を調査したアメリカ軍は、軽量化のため最小の装置のみを搭載しているとコメントしている。

この他に艦上機型である二一型からは、単座機では困難な洋上航法を補助する装置として無線帰投方位測定器が新たに搭載されている。これはアメリカのフェアチャイルド社が開発したものを輸入・国産化したもので、輸入品はアメリカでの呼称そのままにク式(クルシー式の略)無線帰投方位測定器と呼ばれ、後に国産化されたものは一式空三号無線帰投方位測定器と呼ばれた。

機載型レーダーについては、夜戦型であっても未搭載だったが、アメリカ軍においてもF6FやF4Uの夜戦型は前方捜索用レーダーは搭載したが、後方警戒レーダーについては零戦同様に未装備である。

[編集] 設計に使われた技術

九六式艦上戦闘機から引き継がれた技術として、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽等がある。これらは零戦の高性能の実現にも大きく貢献している。日本の艦上戦闘機として零戦で初めて採用された技術には下記のものがある。

  • 引き込み式主脚。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機についで2番目。
    • 飛行時車輪を機体内に格納して空気抵抗を削減する仕組み。米国から輸入したチャンス・ボート社製戦闘機V143の引き込み脚を模倣しており、カウリングや排気管回りなども参考にしていたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという誤った認識が大戦中のみならず、現在でも一部海外で存在する。更には、外見や寸法が似ているグロスターF.5/34(降着装置が半引き込み式で、尾部のとんがりが少々長いが、外形、寸法、各種数値は酷似)をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦戦と同程度に収めるように決められた数値である。また、外見はともかく、内部構造としてはグロスターF.5/34は前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は応力外皮(モノコック)構造であり、コピー説は否定される。オイルシールの品質の低さは終戦時まで解決できず、零戦を含む日本機共通の弱点であった。なお、零戦では、尾輪も引き込み式となっている。研究家の飯山幸伸氏の説では、似たような形の戦闘機があるのは、当時の流行に過ぎないという。
  • 定速回転プロペラ。恒速回転プロペラとも呼ばれる。エンジン回転数に応じてプロペラピッチ変更[7]を自動的に行う。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機についで3番目に装備。なお、零戦に使用されたのは米国ハミルトン社製油圧方式を住友金属工業社がライセンス生産したもの。
  • 超々ジュラルミン。住友金属で開発された新合金で主翼主桁に使用されている。後に米国でも同様の合金が実用化されている。日本・英語圏ともESDと呼ばれるが、日本では「超々ジュラルミン」の英訳である「Extra Super Duralumin」の略であるのに対し、英語圏では「E合金」と「Sander合金」をベースに作られた「Duralumin」という意味の略号である。ちなみに現在のJIS規格では、7000系のアルミ合金に相当する。
  • 操縦索の剛性低下。
    • 零戦の特徴である"低速から高速まで自由自在に機体を操ることができる"操縦性を実現させた技術として有名。人力式の操舵では操縦装置を操作した分だけ舵面が傾く。高速飛行時と低速時では同一の舵角でも舵の利きが全然異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変更しなければならない。そこで、零戦では操縦索を伸び易いものにし、高速飛行時に操縦桿を大きく動かしても、舵面が受ける風の抵抗が大きいため操縦索が引っ張られて伸び、結果的に適正な舵角を自動的に取れるようにしている。全ての操縦索に採用されたと誤解されがちであるが、採用されたのは昇降舵につながる操縦索のみである。
  • 光像式照準器(九八式射爆照準器、俗称OPL)
    • 従来の照準器は「眼鏡式」と呼ばれ、照準用の望遠鏡が前面キャノピーから突き出していたため、空気抵抗も大きくなり、搭乗員はスコープを覗き込むため窮屈な姿勢を取らねばならず、その際は視界も制限された。光像式照準器は、ハーフミラーに遠方に焦点を合わせた十字を投影するもので、キャノピー内に配置できるので空気抵抗を低減でき、照準操作もしやすく、また望遠鏡式と違って覗き込む際には視界が狭くなる事も無くなる。この光像式照準器を日本の戦闘機で最初に採用した。この光像式の技術は輸入したユンカースHe112に付いていたレヴィ2b光像式照準機をコピーしたものであるが、海軍では1932年(昭和7年)OPL製照準器を試験的に輸入して以来慣例的に照準器をOPLと呼称していた。

[編集] 戦闘機としての特徴

  • 軽量化による高い余剰馬力のため、500km/hを超える最高速度と高い運動性能[8]、長大な航続距離、20mm機銃2挺の大火力を併せ持ち、搭乗員の高い技量もあって初陣となった日中戦争の緒戦において無敵ともいえる活躍を見せたことから、大戦初期の優秀戦闘機と言われる。
  • 第二次世界大戦初期において、陸軍の一式戦闘機「隼」と並び遠隔地まで爆撃機を援護することができた数少ない航続力をもつ単発単座戦闘機。
  • ボルトやネジなど細部に至るまで徹底した軽量化を追求したため、設計にない工作上の瑕疵が破壊に直結した。1941年(昭和16年)4月に二一型140号機が急降下飛行時にマスバランスからのフラッタによる空中分解して墜落、操縦していた下川万兵衛大尉が殉職する事故が発生し、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚等の大掛かりな対策工事が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったことを挙げている。
  • 気化器が多重の弁を持つために、マニュアル上背面飛行の制限がない[9]

[編集] 零戦の強み

零戦(特に二一型)の強みの1つは、その航続力であった。長大な航続力は作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらす。実際、開戦時のフィリピン攻略戦等は、彼我の距離が離れ過ぎていた為、当時の常識からすると空母無しでは実施不可能であったが、零戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂した。 但し、大航続力に頼った戦術はオートパイロットや航法装置のない零戦では搭乗員に過度の負担が加わるため、ベストコンディションで戦闘に入れないといった数字では現れにくい欠点も存在する。

この航続力において二一型は傑出していると言われるが、これは落下式増槽に加え、胴体内タンクに正規全備時の62Lの2倍を超える135Lの燃料を搭載するという例外的な運用を行った場合のことである。これと同じ条件、即ち落下式増槽を含む全燃料タンクを満載にした状態での航続距離を比較すると、燃料タンクの小さい三二型や「栄」より燃費の悪い「金星」を搭載した五四型を除く零戦後期型(二二型や五二型各型)と二一型の間に大きな差はなく、三二型でも二一型の85%程度となる。また、二一型以前の零戦は機体内燃料タンクを満載にした状態では飛行制限があるが、三二型や二二型、五二型にはそういった制限はない。

三二型は開戦からおよそ半年後に配備が開始されたが、この時期はガダルカナル戦の開始直前にあたり、二一型より航続距離の短い三二型はガダルカナル戦に投入できず、せっかくの新型機がラバウルで居残りになっていた。このため、この時期のラバウルの現地司令部は上層部に二一型の補充を要求している。また、これは海軍上層部でも問題となって、海軍側の三二型開発担当者が一時辞表を提出しただけには止まらず、零戦の生産計画が見直されるほどの事態となっている。敵味方の相対的戦力で考えると、より高性能であるはずの三二型の特性はガダルカナルと言う戦線には合っておらず、むしろ二一型の方が適合していたと言える。

とは言え、速度・高高度性能・高速時の運動性など、二一型の欠点を補う改修が施された三二型は、後の海軍戦闘機の方向性を決定したと言える。

[編集] 戦況の悪化と零戦

アメリカ軍に鹵獲され、テストされる零式艦上戦闘機
アメリカ軍に鹵獲され、テストされる零式艦上戦闘機

前進基地が整備されるに従い、三二型もガダルカナル戦に投入可能となったが、その頃にはガダルカナルのアメリカ軍の航空兵力は大幅に強化されており、三二型と言えども有利に戦える状況ではなくなっていた。とは言え、同時期の他部隊や前進基地が完成した後のラバウル方面では特に三二型に対する不満は存在せず、むしろ低速で高高度性能と火力に劣る上に高速域での横転性能が低い二一型を嫌う搭乗員も少なくなかった。また五二型配備後の機材補充の要求には二一型を要求するものはなく、激戦が行われていたラバウル方面の基地戦闘機隊には、二一型ではなく高速・大火力かつ高速域の横転性能が改善された三二型・二二型・五二型等の新型零戦が優先的に配備されていた。大戦中盤以降になると空戦の形態が単機同士による巴戦から複数機による一撃離脱へと変化しており、それに対応して一気に大量の弾丸を叩き込めるように改修された新型機(特に五二丙型)は、一般に流布している評価とは異なり、搭乗員からの評価は悪くなかった。尤も対戦相手であるアメリカ軍が新型機を配備し、新戦術・新技術を実施している状況では、既に零戦自体が旧式となっていたともいえる。

[編集] 二一型以降の性能向上について

大戦中、日本海軍は数々の戦闘機を開発したが、生産機数や実戦配備後のトラブルにより最後まで零戦を改良、主力戦闘機として使い続けた。零戦の性能向上について概観する。

零戦の性能向上が果たせなかった原因の一つとしては、日本海軍の戦闘機開発政策の迷走が挙げられる。零戦の実用化に目処が立った頃、海軍は三菱に十四試局地戦闘機(後の「雷電」)の開発を指示している。しかし、試算により十四試局戦(J2M1)の性能が今ひとつであることが判明すると、より大馬力の発動機に換装した十四試局戦改/試製雷電(J2M2)の開発を三菱に命じ、これを次期主力戦闘機(艦上戦闘機ではない)として零戦の減産と雷電の大増産計画を立てる一方、同じ頃に川西が提案してきた十五試水上戦闘機(N1K1)の局地戦闘機化(後の「紫電」「紫電改」)を保険的な意味合いもあって許可している。しかし、雷電が数々のトラブルで早期の戦力化が不可能、紫電・紫電改の実用化はまだ先という状況になったことから、この両機の代替として零戦の火力・防弾の強化及び高速化に泥縄的に取り組まざるを得なくなってしまった。

開戦前の海軍は栄二一型に換装した性能向上型の零戦、後の零戦三二型に期待しており、三菱の他にライセンス生産を行う予定であった中島飛行機でも三二型を大量に生産する計画が立てられていた。しかし、所謂「二号零戦問題」と栄二一型の不調もあって、中島飛行機での零戦三二型のライセンス生産は中止、1944年(昭和19年)前半まで零戦二一型の生産を続けざるを得なかった[10]。なお、中島飛行機は量産能力の高さには定評があったが、工数が多く量産がやりにくい零戦を無理に量産した結果、中島製の零戦は仕上げが三菱製より一歩劣るという評判があり、現場の搭乗員の評判は悪かった[11]。 次に挙げられる原因としては、発動機換装による馬力向上の失敗である。雷電・紫電の穴埋めとして零戦の高速化を図ることになり、五三丙型(A6M6)と呼ばれる性能向上型の開発が開始された。この機体には水メタノール噴射装置によって高出力化を図った栄三一型(離昇出力1,300馬力を予定)の搭載が予定されており、武装・防弾を強化しても最高速度を580km/h台まで向上させることが可能と試算されていた。栄三一型の開発は比較的順調に進み、海軍において実用審査が行われていたが、1944年(昭和19年)秋頃に栄二一型の生産不良問題が発生、その対応に海軍の担当者が追われることになってしまったため、栄三一型の審査は中止され、栄三一型用の水メタノール噴射装置は倉庫で埃を被ることになった。このため、発動機未換装のまま武装・防弾のみを強化した零戦五二丙型が生産されることになったが、正規全備重量が約3,000kgに増加したため、速度、上昇力ともに大きく低下している。

零戦に「栄」より大馬力を期待できる「金星」を装備するという案は、十二試艦戦の装備発動機選定以降も繰り返し浮かび上がっている。まず、零戦二一型の性能向上型であるA6M3の装備発動機を検討する際に、栄二一型と共に金星五〇型が候補として挙がったが、最終的には栄二一型が採用されている。次に1943年(昭和18年)秋に中島飛行機での「」増産に伴って「栄」の減産が計画されたため、零戦の発動機を金星六〇型に換装することが検討されたが、航続距離が低下することと、より高速重武装の雷電二一型の生産開始が近いと考えられていたことから中止となっている。1945年(昭和20年)になり、中島飛行機において「誉」のさらなる増産に伴い、中島では「栄」の生産は中止することになった。このため再び零戦の発動機を金星六二型に換装することが計画された。零戦五四丙型(A6M8)と呼ばれる発動機換装型は、艦上爆撃機彗星三三型のプロペラとプロペラスピナーを流用した極めて間に合わせ的な改造であったが、発動機換装により正規全備で3,100kgを超える機体に五二甲型並みの速度と上昇力を発揮させることに成功した。尤も1943年(昭和18年)秋に懸念された通り航続力は大幅に低下し、局地戦闘機的な性格が強い機体となっていたが、戦線の後退もあってさほど問題にはなっていないようである。成功したように思える五四丙型だが、A6M8試作一号機が完成する数ヶ月前にB-29の爆撃のため「金星」を生産する三菱の発動機工場は壊滅しており、結果として零戦は最後まで「栄」を搭載せざるをえなかった。

[編集] 実戦

[編集] 中国軍との戦闘

空母赤城から離艦する零式艦上戦闘機二一型(A6M2)
空母赤城から離艦する零式艦上戦闘機二一型(A6M2)

1940年(昭和15年)9月13日、零戦は大陸戦線(中国戦線)で初陣を飾り、13機の零戦で味方機の損失(被撃墜)無く敵機27機全機撃墜という伝説的な戦果を報じた[12]。その後も大陸戦線での零戦の活躍は続き、初陣から1年後の1941年(昭和16年)8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜2機のみで空戦による被撃墜機は皆無という一方的な戦いを演じた。

[編集] アメリカ軍との戦闘

開戦劈頭の真珠湾攻撃は奇襲であったためアメリカ軍戦闘機との空戦の機会少なく、主に飛行場に対して機銃を用いた地上銃撃で活躍した。その直後のフィリピン爆撃では、台湾から出撃する陸攻隊を援護しフィリピンを攻撃するという単座戦闘機として未曾有の長距離作戦を成功させ、短期間の内にフィリピンのアメリカ陸軍航空隊を壊滅させた。南太平洋においてもラバウルから長駆ガダルカナル島ニューギニアへの攻撃に活躍。緒戦における零戦の戦闘能力は高く、零戦の優位は日米双方の記録にあるように明らかであったが、その後、補給力の差等から戦力バランスが大きく崩れ、更に早期警戒網と対零戦戦術(後述)が確立されたガダルカナル戦中盤以降は徐々に劣勢に追い込まれていった。

戦争中期の1942年(昭和17年)6月、アメリカ軍はアリューシャン列島ダッチハーバーに近いアクタン島の沼地に不時着した零戦[13]をほぼ無傷で鹵獲することに成功した。この機体の徹底的な研究により、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能を持つ一方で、高速時の横転性能や急降下性能に問題があることが明らかとなり、その弱点を衝く対抗策として優位高度からの一撃離脱戦法と「サッチ・ウィーブ」と呼ばれる編隊空戦法がアメリカ軍に広く普及することになった。

また、戦争中盤以降、アメリカ軍は2,000馬力級エンジンを装備するF6FヘルキャットF4Uコルセア等の新型戦闘機を投入するようになっていったが、雷電や烈風など零戦の後継機の開発に遅れをとった日本海軍は零戦の僅かな性能向上型[14]でこれらに対抗せざるを得なかった。

マリアナ沖海戦ではレーダーにより管制された多数の戦闘機と新兵器近接信管(VT信管)を大量配備した対空砲に阻まれ大きな戦果をあげるには至らず、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島等から日本本土に襲来する新型爆撃機・B-29の迎撃戦においては、零戦の高高度性能に不足があったため撃墜は困難であった。大型爆弾用懸吊・投下装置を追加した末期型は代用艦爆(戦爆)として、また特別攻撃隊(神風特別攻撃)にも用いられ、レイテ沖海戦硫黄島の戦いでは空母を撃沈破するといった戦果を挙げている。沖縄戦では、特別攻撃隊に対応して更に強化されたアメリカ軍の警戒網を突破するために日本側も戦術を工夫して突入を成功させ、空母を含む艦船を撃破したものの、艦隊到達前に撃墜される機も多く、アメリカ艦隊を撃退するまでには至らなかった。

実質、終戦まで海軍の主力戦闘機として戦い、大戦全期間を通じての実績は日本陸海軍戦闘機中随一であり、最も活躍した機体であった。

最終的には10,000機以上の零戦が生産された。

米軍の公式文書によれば、大戦初期の零戦対米軍機とのキルレシオは1:6、大戦後期の日本機対米軍機とのキルレシオは19:1であるとされている。ただし、これはあらゆる戦闘でのF6Fヘルキャットの損失約270機に対し、あらゆる機種を含む日本機の撃墜戦果5156機が基になっていると考えられる。このような数値はパイロットの戦果報告を基に算出している為、実際のキルレシオとはかなり異なり[15]、米軍の史家も「米軍の戦果報告はまちがいなく楽観的にすぎる」と述べているという。

[編集] オーストラリア軍との戦闘

1943年(昭和18年)にオーストラリアのダーウィンにてスピットファイアMk.Vとの戦闘が数度生起している。この一連の戦闘では、一式陸攻を援護しほぼ単発機の限界ともいえる長距離を進攻する零戦隊を自身の基地近くで待ち伏せし迎撃するというスピットファイアMk.V隊に有利な状況であったが、零戦隊が優勢に戦っている。戦闘は一般に零戦有利といわれる低空に限らず高高度でも行われ、また、当初格闘戦であったスピットファイア隊の戦闘スタイルも一撃離脱へと切り替えられたが、最後まで零戦隊の優勢は変わらなかった。

ジョン・ベダー著『スピットファイア』によると、初期の戦闘においては大きな差はなかったものの、次第に零戦が優位に変わり、また、スピットファイアには燃料切れやエンジントラブルで帰投できない機体が相次いだという。また、豪英空軍の証言として「エンジンの出力低下が激しかった」「機関砲が凍結した」等があり、スピットファイアが南太平洋の環境に適応できず、次第に劣化していったと記載されている。[16]

事実、高温多湿な環境は精密な航空機に悪影響を与え、攻撃側の零戦隊にもエンジン不調で途中帰還する機体があった。

最終的に、この一連の戦闘における未帰還機の総計は零戦3機、陸攻2機に対しスピットファイア38機となり、零戦隊の圧倒的な勝利で終わっている。[要出典]

[編集] 主な撃墜記録保持者

  • 原則的に日本海軍には公式・非公式を含め、エース・パイロットという個人単位のヒーロー性のあるカテゴリーは存在しないとされるが、一般的に多量撃墜記録保持者としては、下記の搭乗員が有名である。

[編集] 現存する零戦

以下に現存する零戦の実機やレプリカ機を日本国内と日本国外のものに分けて保存施設ごとに掲載する。

[編集] 日本国内

保存施設/管理者 型名 公開状況 備考
音楽館(山里の博物館) [1] 三二型 公開 マーシャル諸島タロア島で残骸を発見、中日本航空が復元して2004年(平成16年)まで名古屋空港航空宇宙館に展示されていた機体(尾翼番号Y2-128)。福岡宇宙協会の所有物で現在は左記施設に特別展示されている。
鹿屋基地史料館 [2] 五二型 公開 1992年(平成4年)に海中から引き上げられた二一型と五二型丙の2機を使用し、1機の五二型として復元した機体。[3]
河口湖自動車博物館 [4] 二一型と五二型 8月のみ 左記施設により東南アジア各地の戦跡で集められた零戦のパーツから復元された二一型(尾翼番号オヒ-101)と五二型がそれぞれ1機ずつ展示されている。2001年(平成13年)より毎年8月のみの期間限定で原田館長の個人収蔵品の一部として公開が行われている。[5]
国立科学博物館 [6] 二一型 公開 ラバウル工廠で改造された複座機で、被撃墜後ラバウル沖に沈んでいたところを1972年(昭和47年)に引き上げられ、復元された後に左記施設へ寄贈された機体(尾翼番号53-122)。[7]
知覧特攻平和会館 [8] 五二型丙 公開 大戦末期に鹿児島県甑島の手打港近海に没し、1980年(昭和55年)に引き上げられた機体。ほぼ海底から引き上げられたままの状態で主翼を含めた機体前部が展示されている。損傷が大きく同定が難しいためか六二型とされることもある。[9]
名古屋航空宇宙システム製作所 [10] 五二型甲 要予約 ヤップ島から回収された零戦の残骸を三菱にて復元した機体。現在は左記製作所の小牧南工場資料室内にて一般公開されているが、見学するためには予約が必要。[11]
浜松基地広報館 [12] 五二型甲 公開 1944年(昭和19年)グアムのアガナ(Agana)飛行場において不時着・破損し放置されていた機体を1960年代に日本へ搬送して復元したもの(尾翼番号43-188)。
米海兵隊岩国航空基地 [13] 二一型 限定 基地内の掩体壕跡を利用して、映画『零戦燃ゆ』の撮影のために製作された二一型のレプリカ(金属製模型、尾翼番号イハ-192)が展示されている。ただし、基地の一般公開日や団体見学の場合しか部外者は基本的に立ち入ることができない。[14][15]
大和ミュージアム [16] 六二型 公開 終戦間際に琵琶湖へ不時着水し湖底に沈んでいた機体を1974年(昭和49年)に引き上げて復元したもので、2002年(平成14年)までは嵐山美術館(零パーク)に展示されていた(尾翼番号210-118B)。[17]
遊就館靖国神社[18] 五二型 公開 河口湖自動車博物館によって復元された五二型の内の1機(尾翼番号81-161)。[19]

[編集] 日本国外

国名 保存施設/管理者 型名 公開状況 備考
アメリカ Commemorative Air Force [20] 二一型 主に巡業 Commemorative Air Force(又はConfederate Air Force、略称CAF)とはアメリカ国内を中心に歴史的航空機を保存・再生し航空祭でそのデモフライトを行っているNPOである。同団体が保有するT-6を改造して二一型に模したレプリカ機は『トラ・トラ・トラ!』などの映画やドラマに出演している。また同団体は飛行可能な二二型のレプリカ(尾翼番号X-133)の管理も行っている。
アメリカ Fantasy of Flight [21] 五二型乙? 公開 Australian War Memorial Museumが1970年代にラバウルや南太平洋で発見し復元した機体の内の1機で、墜落を再現した状態で展示されている(尾翼番号3-108)。航空機蒐集家カーミット・ウィークス(en:Kermit Weeks)のコレクションの一つ。[22]
アメリカ Fargo Air Museum [23] 二一型 公開 1960年代にロバート・ディマート(Robert Diemert )がブーゲンビル島南沖のバラレ島(Ballale )で採集した零戦の脚を使用し、1990年代にカナダのBlayd Corporation社が製作した一種のレプリカだが、エンジンにP&W R-1830を搭載しており飛行可能である(尾翼番号AI-1-129)。[24][25]
アメリカ 国立航空宇宙博物館 [26] 五二型 公開 1944年(昭和19年)サイパン島で鹵獲された機体(尾翼番号61-131)。[27][28]
アメリカ National Museum of Naval Aviation [29] 二一型 公開 ロバート・ディマートがバラレ島で採集した複数の零戦のパーツより復元された機体(尾翼番号EII-140)。[30]
アメリカ 国立アメリカ空軍博物館 [31] 二一型 公開 パプアニューギニアで発見されたソロモン海戦中に撃墜されたとみられる機体。[32]
アメリカ(ハワイ Pacific Aviation Museum [33] 二一型 公開 ロバート・ディマートがバラレ島で収集した零戦から復元し、エンジンにP&W R-1830を搭載した飛行可能な機体であった(尾翼番号EII-102)。もともとCAFが所有していたが、修理が必要な状態になった後に左記施設へ売却され、現在は静態保存されている。[34]
アメリカ Planes of Fame Museum [35] 五二型(2機) 公開 内1機(尾翼番号61-120)はオリジナルの栄を搭載して飛行可能な唯一の零戦で、毎年5月開催の航空祭ではデモフライトが行われている。もう1機(尾翼番号HK-102)はトラック島で鹵獲された機体で静態保存されている。[36]
アメリカ San Diego Aerospace Museum [37] 六二型 公開 もともと戦後に横須賀で鹵獲された機体で、レストアのため国立航空宇宙博物館が左記施設に貸与したもの。[38][39]
アメリカ The Santa Monica Museum of Flying [40] 二二型 一時閉鎖 1990年代後半にロシアのストレラ・プロダクション・アソシエーツ社によって一部実機のパーツを使用して製作された飛行可能なレプリカ3機の内の1機(尾翼番号X-133)。エンジンはP&W R-1830。現在左記施設は一時閉鎖中だが、機体の運用はCAFによって行われている。
イギリス Imperial War Museum Duxford [41] 三二型 非公開 コックピット周辺の胴体を中心に残骸が収蔵されている。
イギリス Imperial War Museum London [42] 五二型 公開 終戦時に連合国の調査機関(Allied Technical Air Intelligence Unit 、略称ATAIU)に鹵獲された機体だが、現存し展示されているのはコックピットと主翼付け根および脚を含む胴体中央部のみである(元来の尾翼番号BI-05)。
インドネシア Pusat Tni-Anu Museum 五二型 公開 終戦後にインドネシアのバボ(Babo )飛行場に残されていた機体を修復したもの(尾翼番号30-1153)。[43]
オーストラリア Australian Aviation Heritage Center [44] 二一型 公開 1942年にメルヴィル島上空で撃墜された機体の胴体部(尾翼番号B11-124)や残骸から採られた各種パーツが展示されている。[45]
オーストラリア Australian War Memorial [46] 二一型 公開 ニューブリテン島のガスマタ飛行場に放置されていた機体を回収し左記施設で復元したもので、ラバウルで坂井三郎の乗機だったとされている尾翼番号V-173を持つ。[47]
中国 中国人民革命軍事博物館 [48] 五二型 非公開
ニュージーランド Auckland Institute and Museum [49] 二二型 公開 戦後にブーゲンビル島に残されていた神風特攻に使用予定だったとされる故障機を回収・修復したもの(尾翼番号2-182)。[50]

[編集] 保存機・レプリカ機のギャラリー

[編集] 関連人物

[編集] 関連項目

[編集] 零式艦上戦闘機を主題とする作品

[編集] 映像作品

[編集] ドキュメンタリー

[編集] 映画・ドラマ


[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
  • 零戦(総合情報+リンク集)
  • 真実一路(航空機種及性能標準や燃料のオクタン価事情等、公式資料に基づいた通説とは異なる解説が豊富)

[編集] 参考文献

  1. ^ 注:第二次世界大戦の太平洋戦線。当時の日本側の呼称は大東亜戦争
  2. ^ 1936年(昭和11年)当時、レーダーは実用段階まで至っていない。
  3. ^ 交代機が故障で上がれない等。
  4. ^ 一号銃に顕著。
  5. ^ 対地通信距離100km、電信電話共用。
  6. ^ 対地通信距離185km、電信電話共用。
  7. ^ 自動車のギヤシフトに相当する。
  8. ^ 他国の戦闘機よりも横、縦とも旋回性能がズームを除いて格段に優れていた。
  9. ^ アメリカ軍機には背面飛行を数秒以上行うとエンストするとの制限が飛行マニュアルにあった。
  10. ^ 1944年(昭和19年)頃になると中島製二一型は訓練や防空、爆撃などの任務に用いられることが多く、マリアナ沖海戦でも爆戦として投入されている。
  11. ^ 坂井三郎著の大空のサムライ
  12. ^ 中国側記録では中華民国国軍戦闘機34機(I-15×25、I-16×9)中、被撃墜13機、被撃破11機となっている。また、零戦隊も13機中被弾3機、着陸時に1機が主脚故障のため大破。尚、I-15、I-16とも初飛行が1933年であり、零戦に比べれば旧式機。
  13. ^ 搭乗員の古賀忠義一飛曹は頭部を強打して死亡していた。
  14. ^ 武装強化や防弾装備の追加などを行ったが、その重量増加に見合う発動機出力の向上ができなかっため、最高速度や上昇力等の飛行性能を大幅に向上させることができなかった。
  15. ^ 例えガンカメラを併用しても空戦時に敵機の機種や撃墜・非撃墜を正確に判定するのは難しく、報告された撃墜数が実際の撃墜数の数倍以上であることは珍しくない。
  16. ^ ジョン・ベダー 『スピットファイア』 サンケイ新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス〉、1971年、147、150、151頁、ISBN 978-4383024723